名古屋高等裁判所 昭和32年(お)2号 決定 1959年7月15日
請求人 吉田石松
決 定
(請求人・弁護人氏名略)
右吉田石松に対する強盗殺人事件について、大正三年七月三一日名古屋控訴院が言渡した判決(同年一一月三日大審院において上告棄却の判決があり、同日確定)に対し、同人から、再審の請求があつたので、当裁判所は、請求人本人、弁護人並びに検察官の各意見を聴いたうえ、次のとおり決定する。
主文
本件再審請求を棄却する。
理由
本件再審請求の理由とするところは、別紙、弁護人石島泰外一六名共同作成の再審請求書に記載するとおりであるが、その要旨は、本件については、(一)原判決の証拠となつた証人(本件第一審共同被告人)海田庄太郎の証言が虚偽であつたことが証明された、といい(刑訴法四三五条二号、四三七条)、併せて、(二)同証人は、原判決後、自己の証言が虚偽であつたことを認め、同証人が再審請求人と本件犯行を共謀したことのないのは勿論、同請求人が本件犯罪を行つた事実を目撃したことはない、と述べているのであるから、同請求人に対し無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した場合(同法四三五条六号)に該るというのである。
(一) ところで、本件再審請求の対象となつている有罪判決は、大正三年七月三一日に言渡されたもので、その対象たる事件は、大正二年八月一三日のこと、実に、今を去る四〇数年前のできごとである。しかも、太平洋戦争の相重なる戦禍によつて、本件原記録はすべて灰燼に帰して了つている。そして、当時この事件に関係した人々も、奇しくも本件再審請求人と海田庄太郎の生存するのを除いて、既に世を去り、あるいは、その消息を知ることもできないし(取寄にかかる東京法務局人権擁護部調査記録参照)、当時の本件現場並びに再審請求人の居住地附近の地形も歴史の流れと共に変貌し、当時の田圃は今や交通機関の激しく行き交う市街地と化して了つている。(当審受命裁判官のした検証調書参照。)
しかし、この既に歴史の裡に埋没し去つたかに思われる事実にかかわらず、なお厳として存する事実がある。即ち、本件再審請求人に対し前記のごとく有罪の確定判決があつたという事実、それと、同請求人が逮捕より現在にいたるまで四〇有余年、終始一貫して自己の無実を叫び続けてきたという事実がそれである。請求人の主張に耳をかした人々は、彼を巖窟王、エドモン、ダンテスになぞらえた。
(二) ところで、判決により確定された法律状態は尊重されなければならない。判決が確定した以上、もはやその適否を争い、または、それを変更することができないものとすることが(いわゆる判決の確定力)、法的安全性の理念から要求される所以である、もつとも、法は、かかる判決の確定力を絶対不動のものとしてはいない。即ち、確定判決の事実認定の過誤を推測させる一定の事由がある場合に、判決の確定力に固執することは、却つて、刑事司法の究極の原理である正義の理念に反するばかりか、人権保障の要請に矛盾するところがあるからである。法は、特定の場合に、後者の利益の前に、前者の利益の譲歩すべきことを認めた。これが、いわゆる再審の制度である。再審の制度が、このように判決の確定力を破り、法的安全性の要請を犠牲にして、なおかつ正義と人権の保障を全うしようとするものである以上、再審請求理由とされるものは、限定されたものでなければならないし、その請求理由じたいが、確定判決の存在をとうてい容認できないほどの充分の根拠をもつものでなければならない。刑訴法が限定的に再審請求事由として列挙したものが、それであるし、又再審事由は、それにつきる。従つて、単に原判決の事実認定が疑わしいとか、当事者の主張がなんとなく尤もらしいと思われる、というような場合にまで、再審請求を容れるべきでないことは当然である。
さて、本件において、請求人が再審請求事由として主張するところは、前記のとおりである。それは、すべて、原判決の基礎となつた海田庄太郎が当時の公判廷における証言を変更し、同人が請求人と本件犯行を謀議した事実はなく、そして又請求人が本件犯行を行つたことを目撃した事実はない、と述べるにいたつたことを基礎としている。
そこで、記録を検討してみるのに、本件犯罪について被告人と共犯とされた海田庄太郎は、原審公判廷において証人として、「大正二年八月一三日大西仲蔵方ニテ夕食ヲ為シ表ニ出テ居リタル処被告石松(註、再審請求人以下同じ)カ来リ今晩ハト挨拶ヲ為シタリ其処ヘ繭籠ヲ載セタル荷馬車挽カ西方ヨリ来リ古井坂ヲ上リ行クヨリ自分等モ其後ヨリ尾イテ電車道ノ処迄行キタル処其車輓ハ萱場ニ行ク道ヲ聞キシニ依リ自分ニ於テ其道ヲ教ヘ自分等モ教ヘシ道ヲ行キシニ大島湯ニ達スル手前ニ於テ被告石松ハ自分ニ対シ右車挽ヨリ金円ヲ奪取セント告ケタリ右車挽ハ大島湯ノ手前ニテ左ニ曲カラントシタル処被告石松ハ早足ニテ其車輓ノ処ニ行キ俺カ道ヲ教ヘ遣ル故此方ニ来レト言ヒ其湯屋ノ前ノ方ニ連レ行キ自分モ其後ヨリ行キシニ湯屋ノ前ヲ通過シ少シ行クト石松ハ一寸番小屋ニ行キ水ヲ飲ミ来ルト言ヒ立去リタリ自分ト車挽トカ電車道迄行キタル際ニハ既ニ其処ニ来リ待チ居リタリ自分ハ其処ヨリ別レ番小屋ニ帰リタルニ芳平(註、北河芳平以下同じ)ハ石松カ今夜金円ヲ奪ハント言ヒタリト言ヒ玄能ヲ持チ近道ヨリ出テ行キシニ付キ自分モ鑿ヲ持チ其後ヨリ電車道ニ行キタルニ石松ハ車挽ト共ニ其電車道ヲ南方ヨリ来リタリ其時芳平カ石松ト何カ私語シ芳平ハ玄能ニテ車挽ノ頭部ヲ殴打シタル処其車挽ハ倒レタルニ石松ハ更ニ尺八ニテ其車挽ノ頭部ヲ殴リタリ其内ニ電車カ来リシヨリ芳平ト石松ハ黍畑ニ隠レ自分ハ車ノ蔭ニ隠レ電車ノ通過シタル後自分カ鑿ニテ車挽ノ帯ヲ切リ石松カ其者ノ褌ヲ外ツシ首ニ巻キ声ヲ出サヌ様ニナシ夫レヨリ自分カ財布ヲ取リタルニ石松カ其財布ハ俺ニ渡セト言ヒシヨリ石松ニ渡シ云々」と、述べていた。そして、それは、海田庄太郎の証人としての供述であるが、同人の供述が虚偽であつたことを理由として、再審請求をするためには、時効期間の経過のため、同人に対する偽証罪の確定判決を得ることのできない現在においては、その証言の虚偽のものであつたことが証明されなければならないわけである(刑訴法四三七条参照)。ところで、海田庄太郎は、弁護人の引用するように、弁護人に対し、あるいは法務局人権擁護部の係事務官に対し、あるいは又当審の事実調に際し、本件犯行当時の状況について供述するところがあつた。そして、その間の各供述を通して、微妙な点において供述の動揺、変化が認められるが、(昭和二八年四月一〇日法務事務官藤原嘉民に対する供述によれば、犯行当日の夕方大西仲蔵方で夕飯を食べているとき、石松が来て、同人と仲蔵方を出て電車道に行く途中被害者の戸田亀太郎と会い、石松が「あいつをやつつけよう」と海田を誘つたが、同人は「うん、そうだなアー」と応えたまま、石松と別れ、その後の事は知らないと述べているが、その外の供述に際しては、この部分に関する事実も否定するところとなつている。)一貫して変るところのないのは、海田庄太郎自らが本件犯罪に関係した事実はない(但し、前記戸田亀太郎に犯行当夜道を聞かれて教えてやつた事実は終始肯定する。)、海田が請求人と共同して本件犯罪を行つたことのないのは勿論、犯行時刻には海田は、当時雇われ先の大西仲蔵方の新築工場(前記原判決引用の海田の証言中番小屋とあるのに同じ)で就寝していたので、犯行の様子は一切知らない、従つて、請求人が本件犯罪を行つた場面を目撃したことはないし、北河庄平(原判決において請求人、海田と共に本件犯行の共犯者と認定されている。)が関係したことも全然知らない、と述べていることであり、更に又、請求人が本件犯行当日の夕方大西仲蔵方に夕食を食べにいつた海田を訪ねてきた(但し、時刻の点は判然しない。)という事実に関する部分である。即ち、その供述は、海田庄太郎本人が本件犯罪を行つたことがないもので、同人としても寃罪である旨を強調しているだけのことである。その前提にたつて、請求人や北河芳平が本件犯罪を行うのを、目撃したことはない、と述べているわけである。前の部分と、後の部分とは、海田庄太郎の供述としては、不可分一体のものである。これを請求人の主張するように、『本件犯行は、海田庄太郎のしわざだ、請求人は関知しないことである、現に、海田自らが請求人が本件犯行を行つたと述べていないではないか』、と曲げて引用することは、できないものである。しかも海田庄太郎は、このように、自己の犯行を否認する一方、請求人が、本件犯行当日の夕方、(犯行直前と認められる)本件犯行現場から程遠くない大西仲蔵方に海田を訪れたことがあると述べ、(前掲藤原事務官に対する供述調書では、請求人が海田に対し、本件被害者戸田亀太郎を「やつつけよう」と誘つたとまで言い、当審における証人尋問調書では、海田が戸田に道を教え同人と別れた後、請求人と思われる人物(もつともこの点は言葉を濁している。)が、戸田の三、四間前を歩いていた、と述べている。)請求人が、本件犯行になにかの関係のあるような趣旨のことをほのめかして述べているのである。海田庄太郎の前記各供述当時の立場を考えれば、この供述は注目すべきものである。ところで、反面、請求人の主張するところは、請求人は、本件犯行当日午後六時頃まで当時雇われ先の渡辺金吉方工場で働き、その後友人と共に近所の氷屋に赴き、午後八時頃渡辺方から五、六丁離れた女工の花村静江方に夜遊びに行き、同所で三〇分位静江と話し、同人方を辞し尺八を吹きながら漫歩し同夜一二時頃渡辺方に帰宅したもので、その間、大西仲蔵方に海田庄太郎を訪れたことはなく、又請求人としては大西仲蔵方も知らない、花村静江方と本件犯行現場とは距離にして約一里半以上もあるのであるから、請求人としては、現場不在証明がある、というのである。(なお、花村静江及び請求人が花村方を訪れた際同人方に居合わせたという堀場悌助なる者も現在その消息が判らない。前記、法務局人権擁護部調査記録参照。)然し、既に見た如く、請求人が本件犯行当日の夕方海田庄太郎を尋ねて、大西仲蔵方を訪れたことのある事実は、海田庄太郎が、原審において証言していらい今日迄一貫して述べているところではないか。次に、請求人は、昭和一一年一二月一四日漸く海田庄太郎の居所を探し当て、埼玉県北葛飾郡彦成村上彦川戸に同人を尋ね、同人の証言により請求人が無実の罪に陥ちざるを得なかつたことを難詰したところ、海田は、自己の罪の軽からんことを望む余り罪なき請求人をも共犯者なりとの虚偽の供述をして同人を有罪に陥れたことは申し訳ないと泣いて詑び、その際詑び証文一通を作成したことがあり、海田庄太郎の原審法廷の証言は虚偽のものであつたことが明らかにされたというが、当時の状況について、海田は、請求人は腕力も強く乱暴な男であるから、当時の同人のすごい権幕に恐れをなして詑びたものであるし、自己の証人のために請求人が有罪と認められたとすれば、気の毒だと思つたから、謝つたに過ぎない、と述べているのである。(海田庄太郎の前記各供述調書参照。)そして、海田庄太郎の原審における証言が請求人の断罪の資料となつたことが否定できない以上、海田が請求人に責められて、請求人の主張のような言動に出たとしても別に怪しむところはない。かかる事実も結局海田の全供述の中で正当に位置ずけられて評価されるべきである。このように、請求人の引用する海田庄太郎の全供述をつぶさに検討し、その他本件記録に現われた一切の資料を精査してみても、未だ原判決の証拠となつた海田庄太郎の証言が虚偽であり、その虚偽であることが証明されたものとは、とうてい認めることはできないのである。
(三) 次に、請求人の再審請求理由(二)の請求人に対し無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとの主張について判断するが、刑訴法四三五条六号にいわゆる明らかな証拠をあらたに発見した場合とは、原判決の証拠となつた証人(の証言)が、従前の供述を変更して請求人に利益な供述をするにいたつた場合をも含むべきものと解するが、その場合は、証人の供述の単なる変更だけではなく、その変更後の証人の供述が従前の供述に比しより真実を語つているものと認むべきものでなければならないのは勿論、その供述があれば再審請求人の無罪を推測するに足る高度の蓋然性のあるものでなければならない。(ここでは、疑わしきは被告人の利益に従うとのかの原則は働かない。)ところで、本件において、請求人が、援用する同人に対し無罪を言い渡すべき明らかな証拠というのは、前記海田庄太郎の弁護人その他に対する各供述である。然し、同人の供述は、既に前記(二)において検討したように、同人が本件犯行に関与していないことを主張し、その自己の犯行を否認する前提のうえに請求人が本件犯行を行つたのを目撃したことがないと述べるばかりか、却つて、請求人の現場不在証明の主張に矛盾する事実を述べ、同人が本件犯行になんらかの関係のある事実をほのめかして述べているものである以上、請求人が本件犯行を行つたことは知らない旨の海田庄太郎の前各供述は、そのまま直ちに真実を語つているものとして受け取れないもので、同人の前記各供述を目して、請求人に無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したものということはできない。その他、海田本人の供述を内容とする請求人援用の各証拠も又同じである。
以上の次第であつて、請求人の本件再審請求は、いずれも理由がないので、刑訴法四四七条に従い、これを棄却すべきであるが、齢既に八〇才をこえ、有罪判決を受けて四〇数年を経過した今日、なお自己の寃罪を呼び続け、その後半生のすべてを自己の無罪の立証に賭してきた請求人にとつて、その最後の希望が遂にかなえられなかつたことについては、一抹の同情を禁じ得ない。然し、法的紛争は、法的手続に従つて解決されなければならないのである。請求人としては、他に救いを求めるべきであろう。
(最後に附言すれば、請求人は、本件と同旨の請求理由に基いて、これ迄二回位再審請求に及び、そのつど棄却されたことを疑うべき事情が見受けられるのであるが、関係記録がすべて消滅し、これを確認するに由ないので敢て、ここに本件再審請求について判断を加えた次第である。なお、引用の各条文は、再審手続(再審開始前の手続)については新、旧法に変更がないので、現行法によることとした。)
よつて、主文のとおり決定した。
(裁判官 坂本収二 渡辺門偉男 谷口正孝)
再審請求書
本籍 福井県吉田郡上志村字浅見
住居 栃木県都賀郡中村大字下河原田四〇二番地
請求人 吉田石松
明治十二年五月十日生
序論
本再審請求の対象たる有罪判決は、実に大正三年七月二十一日に言渡されたもの、その対象たる事件は大正二年八月十三日のこと、即ち、実に是れ四十有数年以前の事件である。
而も、相重なる太平洋戦争の戦禍によつて、本件原審記録はすべて灰燼に帰したという。
今日、この既に歴史の裡に埋没し去つたかと思われる市井の一事件を敢て再審に問う所以は何処にあるか。
請求人本人は、明治十二年五月十日の出生、即ち齢七十七才の老爺である。
同人は、大正二年、即ち三十三才を迎えたその年の八月十五日捕われてより、強盗殺人犯として起訴せられ、一審死刑、二審無期懲役の言渡を受け、牢獄にあること二十三年、昭和十年の春、齢五十六才を重ねて秋田刑務所より出所した。
そして、その間、逮捕より今日まで四十有余年間、彼は終始一貫して自己の無実を叫び続けた。警察においてはその故に言語に絶する拷問を受け、刑務所においては無実を主張するが故に服役を拒否して筆舌に尽し難き懲罰を数十回に亘つて受けながら、な且おつ無実の叫びを叫び続けた。
そして、出獄と同時に彼の始めたことは唯一つ、それのみによつて彼が強盗殺人犯の汚名を着せられた自白の主二人の共犯被告を探し求めてその自白の虚偽を認めさせることであり、自己の寃罪を明かにしようとする涙ぐましい努力のみであつた。
そして彼は齢八十路に垂んとする今日、なお警察と獄中とで受けた暴行が因で痛む足をひきずり、杖にすがり、かすみ始めた老眼を見開き、老いさらばえた老躯に鞭打つて栃木県の片田舎と東京を往復し、ただそれだけのために、ただこの再審のためにのみその生を辛うじてつなぎとめ、生きつづけているのである。
本弁護人等は、この老人のこの四十年間の血みどろの苦斗の跡を見、その訴えを聞いて、この無実の訴えが見栄や酔狂でやれる虚偽の訴えであるとは到底考え得られなかつた。
何か間違いがある。どこかでかつての裁判官達がとんでもない間違いをしたのではないか。とすれば、獄中に消え去つた二十三年の青春の代償は?
慓然たる思いが本弁護人等の背筋を走つた。何とかしてやらなければならない、既に余生いくばくもない老人である。然し、せめて死ぬ前にその無実だけを明かにしてやれないものか。
老人の訴えは、東京法務局人権擁護部もこれを取上げるところとなつた。
同部は恐らく今日能う限りであろうと思われる資料、証拠を収集した。
その結果先ず判明したことは、全裁判記録が戦禍によつて焼失し去つたということである。
原審の裁判の当否を記録によつて審査する術はない。ただ一審及び二審の原判決の写しだけが残つているにすぎない。
そして、右一、二審の原判決の記載を検討する限りにおいて、恐るべき間違いが、この老人に対する恐ろしい誤審が介在する余地が不幸にして存在していた。即ち、共犯二人の自白以外に、この老人と本件の犯行とを結びつける極め手の証拠はないのである。而も、この二共犯は、昭和十一年吉田老人の出獄後老人に同情して東奔西走した新聞記者諸氏の努力で発見され、両人共にその自白の虚偽であつた旨を述べ、吉田老人にひれ伏してあやまつたというのである。
本弁護人等も、昨年ラジオ東京の記者及録音員と共に、共犯の一人海田庄太郎を訪ねて訊問を試みた。
この録音は証拠として提出するが、海田の態度は、吉田のそれと全く異り、終始真実をおおいかすくために必死という印象を受けた。
而もその中に於てさえ、吉田の本件犯行への加担は真実に非ざる旨は、自己の虚偽の自供の責任を逃れようと汲々としながらも確言している。
本弁護人等は後に詳述する法律上の理由により、現在に於ては可能な限りの証拠とにもとずいて、茲に再審を請求するものである。
第一、請求人が無実の罪で罰せられ現在に至つた経過。
一、請求人は「大正二年八月十三日夜愛知県愛知郡千種町で同郡長久手大字熊張戸田亀太郎がまゆの空籠を載せた荷車をひいているのを見、まゆの売却代金若干を所持しているものと考え、之を強取しようという悪心を起し被告北河芳平被告海田庄太郎と相談し三名共謀の上右亀太郎を殺害し其所持金を強取しようと企て、同人を千種町字野輪地内電車軌道に沿つた道路に誘い被告石松(請求人のこと)は被告芳平を促し芳平は之に応じ突然亀太郎の後より玄翁で其頭部を殴り同人が地上に倒れたところを被告石松は更に携えた尺八で亀太郎の頭を乱打し、ついで被告庄太郎は呻いている亀太郎の帯をのみで切り着衣を解き褌を引き外し之をそのくびに巻きつけ逐に亀太郎を殺害した後同人所有の金一円二十銭在中の財布一個を強取したものである。」という身に全く覚えのない事実で起訴された。
請求人は取調べに於ても気を失う程の拷問にも屈せず犯行を否認しつづけ、公判廷に於ても終始自己の無実を裁判官に訴え続けたにも不拘、相被告人北川、海田が請求人を主犯にしたて、自供したため名古屋地方裁判所で大正三年四月十五日死刑の言渡を受けた。
請求人は直ちに控訴したが、名古屋控訴院では死刑を無期懲役に変更した丈であつた。請求人は事実誤認を理由として大審院に上告したが、真実は大審院の容れるところとならず、上告は棄却され判決は確定し、請求人は罪なくして終身刑を受けなければならないこととなつたのである。
二、請求人は何ら刑罰を受ける様な行為をした覚えはなかつた。
刑務所に於て自由を拘束され雑役に服することは罪を犯した者のなすことである。罪を犯していない請求人は速刻刑務所より釈放さるべきであつたし、まして雑役に服さねばならぬ理由はなかつた。請求人の刑務所の生活は、「私は無実だ、釈放せよ」と終日どなり、わめき暴れることで開始された。勿論雑役に服すことは拒否した。半狂乱でわめきあばれまわり、服役を拒否した請求人にはそれ相当の懲罰が加えられた。両手に手錠をはめられたまま、何日も暗い独居房に一人転がされた。懲罰が惨酷を増す毎に被告の真実の叫びは益々高くなり、抵抗は増大した。恐ろしい懲罰の日がつづいた。
大正十一年九月、面会に来た請求人の母親ソデは余りに変り果てた我が子の姿に驚き、悲嘆の涙の中に帰つて行つたが、数日後に請求人は「ハハシス」の電報を受け取つた。母親の歎きと悲しみ、極度の精神的衝撃は、母親の生命を持続する力を絶ち切つたのである。
やがて狂暴な囚人として、請求人は極悪犯の入れられる北辺の網走刑務所に送られた。然しそこでも請求人の「私は無実だ」という絶叫が続いた。半狂乱で暴れ、作業を拒否した請求人には、懲罰として「俺は無実だ」と言うことができない様に顔には防声器がはめられた。それは口に猿ぐつわをはめ、皮製の袋を頭にすつぽりかぶせ、頭の上で錠のかかる恐ろしい懲罰器具である。手には手錠がはめられ、足には足かせがはめられた。そして零下数十度の極寒に火の気のない雪の曠野にぽつんと立つている堀立小屋の独房に一人投げこまれたのである。
この様な生活が十年程つづいて更に秋田刑務所に移された。そこでも請求人の「俺は無実だ、調べ直してくれ」という悲痛の叫び声がきこえた。獄則違反ばかりやる未練がましい強盗殺人囚はそこでも独房に入れられた。
然し独房の中でけだものの如く吠えたてる「俺は無実だ」という日夜をわかたぬ叫び声はそこで二十三年に始めて聞く人を見出したのであつた。赴任後間もない大場所長は請求人の叫びの中に真実のひびきを聞きとつた。そして犯行の夜の被告の事情を聞き、請求人の無実を信じ、仮釈放と再審の方法のあることを教えた。やがて大場所長の決断により昭和九年三月二十一日既に模犯囚となつていた請求人は仮釈放により秋田刑務所を出獄した。思えば長い年月であつた。暗い獄窓の中で無実の罪に血の涙を流すことここに二十三春秋、戒具をつけられ暗黒の特別独房に呻くこと五十三回、入る時は溢るる力にみち、温和な顔であつた若者は頭に白髪を頂き顔に苦痛にゆがんだ皺をきざんだ骨ばつた眼のけわしいやつれ果てた老人として刑務所の門を出たのである。
三、刑務所の門を出た請求人は出迎えの兄を置ざりに秋田警察に走りこんで「自分は無実の罪で一生を棒にふつた。真犯人を探す方法を教えて下さい」と訴えたが、全然問題にされなかつた。請求人は警察、検察庁、裁判所、司法省をまわつて相談しようとしたが、やはり相手にされなかつた。思い余つていたところ、親切な裁判所の守衛から司法記者に相談したらどうかと教えられた。
請求人は大審院の司法記者室で自分の無実の罪をはらしてくれと訴えた。最初はそこでも相手にされなかつたが、数ヶ月司法記者の間を訴えつづける中、都新聞の青山与平、時事新報の中島亀次郎、国民新聞の遠山寛の三名の記者は請求人のあまりの熱心さに心をひかれ遂に或る日大審院の弁護士控室で請求人に会い、事情をきき、請求人がえん罪であることを確信したのである。
やがて右三名の厚意により刑事弁護士の大家秋山高三郎弁護士に相談することができた。そして結論はやはり新たな証拠を得るために北川、海田を探し出すということであつた。
請求人は諸所方々をめぐりあるく商売としてバタ屋を選んだ。
そてて屑拾いをしながら人の噂に耳をかたむけ、毎日歩きまわつたが、二人の行方は逍としてわからなかつた。その間警察にも何度も行つたが、やはり相手にされなかつた。
やがて、三名の記者の熱情は北川芳平の所在をつきとめた。司法省行刑局の前科人名簿をもとにして苦心の末、北川が神戸市灘区倉石通四丁目市立救護院灘分院に入院していることがわかつたのである。
三名の記者は旅費を出し合つて即日請求人を神戸に旅立たせてくれた。かくて、請求人と北川は昭和十年四月二十四日劇的な対面が行われた。一度ならず殺してしまおうと考えた恨みに徹した北川に対し、請求人はこぶしを握りしめて病室に入つたが、そこに横たわつているのは背髄病で一旦は危篤におちいつた病苦にやつれた老人たちであつた。北川から請求人がきいたことは、海田があの晩ひどく興奮して帰つてきて俺は人を殺して来たが黙つていろ。他人に話したら唯ではおかないと言われ、海田からおどかされて吉田を真犯人としてしまつた。あんたを長い間苦しめてすまなかつた。ということであつた。請求人は「何だ、お前も無実なのではないか」と言う他なかつた。請求人は北川が書いた無実を証明する自筆の覚え書を懐ろに東京に帰つた。
北川も真犯人でないとすれば、之も一つの問題である。同人の言うことが請求人を見て恐しさの余りの逃げ言葉であるか、或は真実かわからない。然し北川は第一審公判立会検事徳沢治之助の言によれば精神薄弱者で智能は一人前ない人であつた様である。従つて、人になされるままに抵抗することもなく、苦痛を感ずることもできぬままに無実の罪で罰せられたことも考えられないでもない。
請求人はその後もバタ屋をして方々歩きながら海田の行方を探した。海田はもとガラス職工だつたから、もしかするとどこかのガラス工場につとめているのではないかと思い、東京市中のガラス工場に出入する職工を一つの工場に二、三日づつかけて見張つたが、海田はあらわれなかつた。
昭和十一年八月には訴訟記録に当つて絶対誤判だと言つてくれていた力とたのむ秋山弁護士が死去した。
然し、その年もくれようとする十二月十四日ひる頃、前記新聞記者三名の努力により請求人は海田の所在がわかつたという報せをうけた。即刻埼玉県彦成村上彦成戸の海田方へ自動車はフルスピードで飛んだ、青山与平、同僚の藤田幸男記者とカメラマン菊地義男の三氏が請求人を同伴したのである。
海田の家とは名許りの雑木林の中の戸もない畳もない、ござが一枚敷いてある丈の堀立小屋。海田は玩具の行商に出かけ小屋には誰もいなかつた。一刻も待てぬ請求人は行商の先を探して車を走らせたが、新田村でリヤカーに玩具をつんでひいてくるヨボヨボの老人海田を見出した。
海田は吉田を一目見るなりリヤカーを放り出してよくもこのヨボヨボがこんなに早く走れると思う様に走り出した。逃げる方も追う方も必死、遂に吉田は海田をつかまえた。
「俺は貴様が法廷で嘘を言つたため二十三年を牢屋でくらしお母も殺してしまつた。いまだに強盗殺人の前科者として世の爪弾きになつているのだ」ボロボロと涙を流しながら吉田は口早にわめいた。海田はへたへたと地面に坐りこみ泥寧に身を沈め、土下坐してすみません。すみませんという許りであつた。
やがて一同は海田の家に入り、そこで海田自ら筆をとり、たどたどしい字で書いたのが「お前を引き入れて悪かつた。勘弁してくれ、自分の罪を軽くしようと思つて嘘を言つたのだ」という墨字に拇印の詫証文であつた。かくて「済まなかつたなあ本当に」とおろおろ泣き声さえ出してわびる海田には真面目に商売をやるんだぞという他に言葉はなく、海田を後に残し東京に帰つた、請求人はその夜二十五年振りに安らかな眠りについたのであつた。
翌日請求人は秋山弁護士の後をついだ菅野弁護士に詫証文をもつて行つた。同弁護士も何よりもよい証拠だと喜ばれ、その詫証文は再審申立書にそえて裁判所に提出されたのである。
然し、請求人に対し、運命は更に苛酷であつた。当時幾十万の生命を帝国主義戦争にかりたてていた国家は一老人の人権を顧みる情はなかつた、再審申立は七年間裁判所で握りつぶされた末、昭和十九年海田の詫証文は暴行脅迫により作成されたもので、自由意思により作成されたものでないという理由で却下された。勿論請求人は直ちに抗告したが、同じ理由で却下された。而もやがては請求人の二十有余年の思いをこめた海田の詫証文は空襲により大審院と共に炎上してしまつたのである。
何たる無情、請求人は再び泣きに泣いた。一切の労苦は水泡に帰したのである。
四、終戦後、請求人は帰農したが、もはや瞼に画く青天白日は雲に覆われ、救いの手の差出される当てのないまま、更に強盗殺人の前科者として村の人の白眼視の中に肩身の狭い生活が続いた。
然し、一途に自分は無罪だと泣き叫ぶ老人の声は、中村の元村長森田庄吉氏の胸を打ち、同氏は再審嘆願の署名をとつた。近在の人々も今や請求人の無実の罪を知り、昭和二十七年請求人が森田氏に導かれて人権擁護局に此の問題を持ちこんだときには、中村の隣接町、村民の六百名の署名がなされていた。
以上が請求人が無実の罪を負わされて以来、本件再審申立に至るまでの経過の大略である。
第二、再審の理由
(一) 本件は先ず刑事訴訟法第四三五条第二号、同第四三七条に該当するものである。
原判決において請求人を有罪とした証拠の最大なるものは、海田庄太郎の公廷における供述、北川芳平の公廷における供述であることは、原判決の記載によつて明かである。
而して、原審である控訴審に於ては、右海田、北川は既に第一審に於し服罪しているので、その供述は、言うまでもなく証人としてなされた証言である。
而して、右海田、北川の証言が、虚偽であつたことは、左記各証拠によつて証明せられている。
(一) 昭和二十七年九月三十日附法務事務官寺田一郎作成青山与平の聴取書
(二) 昭和二十八年四月十日附法務事務官藤原嘉民作成海田庄太郎の調査書
(三) 昭和三十年六月二十二日附法務事務官大森鼎他一名作成海田庄太郎の調査書
(四) 昭和三十年六月二十二日作成された東京法務局人権擁護部における請求人吉田石松と海田庄太郎との対質訊問の速記録
(五) 昭和三十年作成された海田庄太郎の自宅における本弁護人に対する海田庄太郎の供述の録音テープ三巻
(六) 昭和十一年十二月十五日附都新聞記載の写真による海田庄太郎が昭和十一年十二月十四日作成し、請求人吉田石松に差入れた
「お前を引き入れて悪かつた、勘弁してくれ、自分の罪を軽くしようと思つて嘘をいつたのだ。」
という内容の詫状の存在。
(七) 昭和三十一年七月六日附東京法務局事務官藤原嘉民他一名作成藤田幸男の調査書
右詫状が任意に成されたものであることの目撃証言
(八) 昭和三十一年十月二十六日作成東京法務局事務官大森鼎作成青山与平の調査書
(九) 埼玉県北葛飾郡吉門町大字木生七十六番地佐見秀将方
証人 海田庄太郎
(十) 東京都目黒区柿ノ木坂三十番地
同 弁護士 菅野勘助
(十一) 東京都杉並区阿佐ヶ谷三丁目五〇番地
同 青山与平
(十二) 東京都世田谷区太子堂町一一九番地
同 藤田幸男
(十三) 東京法務局人権擁護部第二課長
同 大森鼎
(十四) 栃木県都賀郡中村大字下河原田四〇二番地
請求人本人 吉田石松
而して偽証罪は、七年を以て公訴時効となるものであり、右両名の偽証は、大正三年四月乃至七月の間になされたものであることは原判決によつて明かであるから、右時効は大正十年七月中に完成している。従つて右両名の証言が虚偽であつたことを証明する確定判決は現在これを得ることができない。よつて右記の各証拠により、原判決の証拠となつた右両名の証言が虚偽である事実を証明して茲に、刑事訴訟法第四百三十五条第二号、同第四百三十七条により再審を請求するものである。
(二) 更に刑事訴訟法第四三五条第一項第六号は再審の理由として有罪の言渡を受けた者に対して無罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見した場合をあげている。
然らば右の「明らかな証拠をあらたに発見した」とはいかなることをさすのであろうか。
第一に前判決の訴訟手続当時より存在していたが裁判所に提出しなかつた証拠が判決確定後新しく発見された場合を含む事は疑いがない。
第二に判決確定後発見された証拠も含まれることは争いの余地はない。(東京高裁判例)その代表的なものは刑訴法第四三五条第一項第二号乃至第五号にあげられているが、然し之に限られる必要はない。
例えば共同被告人の自白が虚偽であることを確定判決により証明することは之が偽証罪の対象とならない以上困難であるが、その自白が虚偽であることが確定判決後に発見されれば第六号により再審の理由とすることができるものとせねばならない。例えば本件における前記詫証文の如きである。この場合「明らかな証拠をあらたに発見したとき」の発見とは従前より存在していたものの存在を覚知したという意味ではない。
「確定判決後に生じた無罪を証すべき明らかな証拠が裁判所に提出し得る状態にあること」も右の「発見」の概念中に含ませらるべきであろう。
さて右の確定判決後に生じた無罪を証すべき明らかな証拠とはいかなるものであろうか。それは通常人が高度の蓋然性を以て被告人が無罪であることの確信を得ることの出来る一切の資料であると言いうるであろう。
いわばこれは広義における再審理由となる新たな証拠ともいわるべきものである。
そしてその場合の資料は形式的に制限さるべきでなくその資料により被告人が無罪であることを確信できるかどうかは裁判官の自由心証に任せらるべきである、この場合裁判官は通常人を代表するのであつて、特別の論理の法則に従うことはない。
さて、本件再審請求に当つては、狭義及び広義二種類の再審理由即ち「新たに発見された無罪を言渡すべき明らかな証拠」がある。第一の種類の証拠は即ち現実に確定判決後作成された請求人の無罪に関する直接の証拠である。
それは原判決の証拠而も最大の極め手の証拠となつた共犯被告人海田庄太郎及び北川庄平の自供が虚偽であつたという証拠である。それは次の各証拠である。
(一) 昭和二十七年九月三十日附法務事務官寺田一郎作成青山与平の聴取書
「北川は名古屋の病院で発見し、ここに吉田を連れていつたが、北川は海田に吉田がやつた(殺し)といえといわれてその様に証言したことであるといわれた。………」
(二) 昭和二十八年四月十日附法務事務官藤原嘉民作成海田庄太郎の調査書
(三) 昭和三十年六月二十二日附法務事務官大森鼎他一名作成海田庄太郎の調査書
(四) 昭和三十年六月二十二日作成された東京法務局人権擁護部における請求人吉田石松と海田庄太郎との対質訊問の速記録
(五) 昭和三十年作成された海田庄太郎の自宅における本弁護人に対する海田庄太郎の供述の録音テープ三巻
(六) 昭和十一年十二月十五日附都新聞記載の写真による。海田庄太郎が昭和十一年十二月十四日作成し請求人吉田石松に差入れた
「お前を引き入れて悪かつた、勘弁してくれ自分の罪を軽くしようと思つて嘘をいつたのだ。」
という内容の詫状の存在
(七) 昭和三十一年七月六日附東京法務局事務官藤原嘉民他一名作成藤田幸男の調査書
右詫状が任意に成されたものであることの目撃証言
(八) 昭和三十一年十月二十六日作成東京法務局事務官大森鼎作成
青山与平の調査書
なお、附言しなければならないと考えるのは
右の(六)、(七)の証拠についてである。
即ち(六)は昭和十一年請求人が弁護士菅原勘助を弁護人にして再審の申立をした際その本証を証拠として提出したとのことである。本弁護人は原記録焼失の現在その事実を確認する方法を有しないのであるが、伝聞するところによれば、右申立は右詫状が脅迫によつて作られたものであつて証拠能力を認めえないとの理由で却下されたということである。
その真否は不明であるが、仮りにそれが事実であるとしても、本申立に於ては、右詫状の存在を(七)の右詫状が任意に作成されたものであるとの新しい証拠と一体として提出するものであるから、刑事訴訟法第四四七条第二項に該当する場合ではないと思料する。
且つ前述の通り詫状の本証が裁判所に於て焼失している以上、その立証は、幸にして残された新聞の写真を提出する以外に方法はないのである。
更に本弁護人は、請求人に無罪を言渡すべき新たな明かな証拠として左記各証人の取調を請求するものである。
(一) 埼玉県北葛飾郡吉門町大字木生七十六番地和佐見秀将方
海田庄太郎
(二) 東京都目黒区柿ノ木坂三十番地
弁護士 菅野勘助
(三) 東京都杉並区阿佐ヶ谷三丁目五〇四番地
青山与平
(四) 東京都世田谷区太子堂一一九番地
藤田幸男
(五) 東京法務局人権擁護部第二課長
大森鼎
第二に本弁護人は、広義における再審理由に該当する証拠として次の事実が指摘しうると考える。
この事実はすべて請求人本人の供述によつて言渡されるのみならず、当時の関係者たる官憲を取調べることによつて明かにされるであろう。
即ち、被告人が残虐を極めた拷問にも不拘無実を叫びつづけた事実、公判廷でも遂に自白しなかつた事実、下獄後も自分は罪人ではないからと言つて囚衣をきるのをあばれまわつて拒み、作業を拒み、五十三回にわたる懲戒に屈せず二十三年間自己の無罪を叫びつづけた事実、出獄後直ちに自己の無実を訴え関係官庁にお百度ふみをした事実、真犯人北川と海田の行方を尋ねて日本中探しまわつた事実、遂に北川、海田にめぐり合い詫証文をとつた事実、更に再審を提出した事実、その却下された後も尚も無実を叫びつづけている事実、要するに有罪の判決後四十年間に亘り終始一貫一回の変化もなく、体をかけて無罪を叫びつづけ自己の無罪を明らかにすることのみをその生涯の唯一の目的となし、今正に余命いくばくもなくして尚自己の無罪を証することに全生活を傾倒している事実。その事実こそは最も有力に被告人の無罪を証すべき明らかな証拠であると言わねばならない。
「自分はお前が無実であることは確信できる。然し証拠がない」という命題はそれ自身矛盾である。無実の罪を着せられていることを確信したからには何らかの資料によつてそのことを確信した筈である。その資料が証拠である。従つて人がある人の無罪を確信した場合には証拠があつたのである。その証拠中より当事者本人の供述を除外する理由はない。それは自由心証における証拠価値の問題である。従つて結論は「自分はお前の無実であることが確信できる」か又は「自分はお前の無実であることについて確信できない」かの何れかでなければならない。
現在請求人の住居の近在の町や村の数百名の人々及び前記青山、中島氏の如き新聞記者及び法務省人権擁護部の人々は請求人の無罪を確信し、請求人の再審申立について惜しみなき協力を俸げられている。その人々は請求人の供述、其他の人の供述及び他の資料即ち一切の証拠により請求人の無罪を確信されたのである。而して前記の人々は何れも通常人の能力のある人である。もし刑事訴訟法第四三五条第一項第六号の「無罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」の意味が、前記の論理の如く「通常人が高度の蓋然性を以て無罪を確信すべき資料が確定判決後裁判所に提出しうべき状態にあるとき」という意味が許されるならば、正に本件は刑訴法第四三五条第一項第六号の要件に該当しているものと言わなければならない。而して此の場合自由心証の問題であるから本件事件当時の請求人のアリバイ、捜査過程における拷問、原判決の審理の不尽乃至判決の証拠との矛盾も夫々資料となる。
之等の事実を認定する資料は原判決の記録すら焼失した今日、主として請求人本人の供述を除いては間接的な資料を残すのみであるが、その間接的な資料(それは請求人の訴えをとり上げてくれた十数年前よりの新聞雑誌が主たるものであるが)こそ請求人の一生の叫びの存在を如実に化体したものであり、その様な新聞雑誌の記事の存在自体が請求人の無実を極めて強力に物語つている。
之は例えば警察が世間に被疑者の有罪であることを発表したことを新聞で掲載したという如き場合とは発表に至らしめた主体、動機、経過(例えば請求人が新聞にこの事を発表させる迄は数十回の記者クラブに通いつづけた事実が潜んでいる)等に於て根本的に異つているのであり、証拠能力としても別個に取扱わるべきものである。
従つて広義における再審の理由の証拠としては左の証拠の取調べを請求する。
(一) 昭和十一年十二月十五日附都新聞
(二) 昭和十年四月十二日附都新聞
(三) 昭和十年四月二十六日附新聞
(四) 昭和二十七年六月十四日附東京日日新聞
(五) 昭和二十七年八月三十一日附週刊サンケイ
(六) 昭和二十九年サンデー旭川No.11――No.14
(七) 昭和三十年十月号文芸春秋
更に人証として右事実を立証するため請求人の取調を請求する。
栃木県都賀郡中村大字下河原田四〇二番地
請求人 吉田石松
結語
現在再審の理由は一定の範囲に制限せられているが、その制限は稍狭にすぎ、具体的な事例に於て正義に反する結果となつている。
新憲法に於て人権の尊重保障された現在再審理由も近年の刑事訴訟法の改正に於て当然再審理由も検討せらるべきであつたが、改正が急であつたためか、再審については旧憲法下の規定がそのまま引きつがれている。然しながら法の解釈に於ては人権を軽視した旧憲法下の解釈の態度と同じであることは許されないであろう。要は無実の罪と信ぜられる人について無実であるという再審の判決が与えられる様に合目的々解釈されねばならない。刑事訴訟法第四三五条及び同法第四三七条の解釈は人権の擁護に欠くる事のない様に解釈されねばならない。
再審理由に関する前記の如き当弁護人の解釈はその意味で決して無理な解釈でなく、最も自然な解釈である。
刑法は犯人のマグナカルタであるといわれている。法を用いる裁判所の機能も亦同様でなければならない。
請求人は三十二才より二十三年間無実の罪を問われ、出獄後も老いの身を駆つて自己の無実を叫びつづけ今日に至つた。
今や請求人は齢七十七才、余命既にいくばくもない。再審開始が決定せられたとしても吉田老人は判決以前に自己の無実を叫びながら、限りない恨みをこめてその生を終えるかもしれない。或いは、再審の開始決定こそがこの老人の数奇の生涯に対する最後のはなむけとなるかも知れないのである。
本弁護人等は心から念願する。
願わくば、この老人の生命の灯の燃えつきぬ間に慎重且つ迅速な審判によつて老人の無実を白日の下に明かにし、安らかにその余生を送らしめんことを。
昭和三十二年九月十八日
弁護人 石島泰
同 池田輝孝
同 青柳盛雄
同 小沢茂
同 岡林辰雄
同 大塚一男
同 上田誠吉
同 金綱正己
同 島田正雄
同 竹沢哲夫
同 植木敬夫
同 高島謙一
同 関原勇
同 佐藤義弥
同 倉田哲治
同 中田直人
同 安田郁子
名古屋高等裁判所 御中